中日新聞 2005年3月20日(日)掲載
彼女たちのストーリー 吉川とみ子さん(51) レーシングドライバー
「ル・マン完走」挑戦は続く




 25年前、日本女性で初めてF3レースに出た。12年前、世界3大レースの1つ、フランスのル・マン24時間耐久レースに出場した。これも日本女性で初。当然、マスコミに騒がれた。今、51歳。もう騒がれない。でも走り続ける。持ち続けてやまない、ル・マン完走の夢をかなえるために-。
 25年以上前から彼女を知る、ブリヂストンのモータースポーツアドバイザー、寺西康雄さん(52)がたたえた。
 「レース中の横G(重力)に耐える首の力は強靭な体力と精神力が必要。“男の世界” の中、レースが一般に知られていない時代から、この年までトップクラスでやり続けるのはすごい」
 時速350キロを超えるスピードに耐える。練習中に大けがをした経験も、目の前で知人レーサーが悲劇を迎えたこともある。
 それでも、だからこそ走り続ける。「生きていることをありがたいと思って一生懸命生きないと」
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 金髪にきついパーマ。目標もなく投げやりに暴れていた「不良少女」だった。
 愛知県大治町の青果店に生まれた。得意のソフトボールで投手になれなかったことを「挫折」に感じ、推薦で入った高校を中退した。自暴自棄で閉じこもっていたとき、唯一の居場所が兄の車の中。何時間もこもった。内緒で夜中に運転し始めた。親に反発もし、家からお金も持ち出す。交番のお世話にもなった。
 20歳のとき、アマチュアレーサーの義兄に誘われ三重の鈴鹿サーキットへ。若者たちがレースのために昼夜も働く苦労を、目を輝かせて語る姿に衝撃を受けた。「ここには未来が見える。私は何をやってるんだ」
 帰ってすぐ両親に「働かせて」と頭を下げた。その日にストレートの黒髪に戻した。翌日から市場に出かけ店を手伝い、別の場所でも働いた。古いレース仕様車を分割で買って、毎週鈴鹿に通った。サーキットで走ること自体がうれしくてすがすがしかった。
 22歳で国内A級ライセンスを取得し、新人向けレースに初出場。33台中10位。その後、F1と同じ1人乗りの、FL500レースに出るように。レースは実力をスポンサーに「買って」もらわないと出られない。自分でも営業に回る。徐々に認められ、26歳で国内で第2のクラス、F3レースに出場。「女性初」に取材が殺到した。5年出場を続け、最高で4位。
 32歳のとき、国内でF3の上のクラスといわれる富士グランドチャンピオンシリーズの公開練習で大クラッシュ。レース車を廃車にした。その事故が耐久レースに転向するきっかけになった。
 ル・マンの誘いが掛かったのは36歳。日本女性初にマスコミも大騒ぎ。でも翌年の出国直前、必要なライセンスが出ず、現地で交渉したが、駄目だった。「生きた心地がしなかった」。翌年悲願の初出場。大雨の中、メンバーが大クラッシュ。再び走り始めたものの、完走扱いにはならず。以降の3年間もマシントラブルなどで完走できなかった。どうしても「完走」が目標になった。その後10年、出場できていないが、国内の耐久レースで実績を残し、機会をねらう。
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 ル・マンは半数がリタイアする過酷なレース。ドライバーはあくまでチームの1つ。初出場時の大クラッシュでは、大破してピットに戻った車を、ほかのチームのメカニックまでが駆けつけて修理してくれた。
 再び走り出すとき、みんなから大きな拍手をもらった。「レースをやってきてよかった」。今も忘れられない。
 「耐久では一瞬早くても何にもならない。いかに最後まで走るか。速さはもちろん、車の扱いの丁寧さを要求されるし、スタッフの力も本当に大きい。人のつながりがすごく重要」
 男女の区別が無い世界だが、筋力、瞬発力などで差を感じることも。「でも逃げていても始まらない」。筋トレ、エアロビクス、ランニングを欠かさない。昨年の鈴鹿1000キロ耐久ではクラス優勝した。「レース出場のために周りを動かしていく力がある人」と寺西さん。
 ことしのル・マンも決まっていない。でも「いつチャンスが来てもあたふたしたくない。完走まで挑戦し続けたい」。自分の道を自分で延ばして走る。

【珠玉のとき】
 28歳のとき、一緒に練習していた若い子が自分の目の前で、事故に遭って亡くなった。辞めることも考えた。自分も含めすべての生き物にいずれ死が来る。だから生きてる限りは一生懸命やろうと。そのときから、どんな生き物、草木にも目がいくように。ケガしたネコを拾ったり、頼まれたりして30匹くらい飼ってます。そのために家も借りて。世話は大変だけど、命の尊さを感じます。目が合うと連れてきてしまいます。